近現代美術のコレクションから

20世紀欧米の美術

グスタフ・クリムト
《人生は戦いなり(黄金の騎士)》1903年

黄金の甲冑に身を固めた騎士が、行く手を阻む邪悪な蛇に目もくれず、歩みを進めようとしている様子が、正方形の画面いっぱいに描かれています。オーストリアの画家クリムト(1862-1918)は、国の依頼で手がけたウィーン大学大講堂の天井画を猥褻だと非難されたことをきっかけに、自らの芸術を独自に探究するようになりました。デューラーの銅版画《騎士と死と悪魔》(1513)を参照したこの騎士の姿に、クリムトは自身の状況を重ね合せています。画家の代表作のひとつである本作は、哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの父親の旧蔵品で、日本の公立美術館としては初めて収蔵されたクリムトの油彩画です。

©2023 – Succession Pablo Picasso – BCF (JAPAN)

パブロ・ピカソ
《青い肩かけの女》1902年

深い青一色の空間を背に、青い肩かけをまとい、うつろな表情をした女性が、静かに佇んでいます。1901年、友人の自殺に強いショックを受けたピカソ(1881-1973)は、その友人のアトリエに滞在し、青い絵具で画面全体を染め上げるようにして悲哀に満ちたモチーフを描き始めます。パリの刑務所に収容された梅毒患者の娼婦や幼子を抱えた母親たち、バルセロナの出稼ぎ労働者たちのように、社会から疎外された人々に目を向けたこの時期は、「青の時代」と呼ばれています。本作もこの「青の時代」の一枚で、ピカソが手元に愛蔵したのち、孫娘に受け継がれた作品です。

ピエール・ボナール
《にぎやかな風景》1913年頃

ここに描かれているのは、ボナール(1867-1947)が1912年に購入した別荘のある、ノルマンディー地方ヴェルノンのセーヌ河畔の風景です。右手にはボナールの妻マルトが愛犬ユビュとくつろぎ、左手にも人物が動物と戯れており、この大画面の素朴で平和な田園風景には、古代の牧歌的世界観が重ねあわされています。ボナールは1909年に訪れた南仏の明るい光に魅せられ、色彩表現に開眼しました。さらにこの作品はモネの晩年の作品に触発され制作されたもので、逆光や陰の部分への青や紫色の多用や素早い筆致にその影響が見られます。

エドヴァルド・ムンク
《イプセン『幽霊』からの一場面》1906年

地方名士の未亡人の屋敷の一室で、表情の見えない複数の人物がそれぞれ別の方向を向いて立っています。大きなガラス窓の向こうには、蝋燭の不始末により全焼した孤児院の残り火が見えており、画面全体に散らばる痛々しいような赤色や、重苦しい暗色などが不安を誘います。ノルウェーの画家ムンク(1863-1944)は、同国を代表する劇作家イプセンによる『幽霊』がドイツの小劇場で上演される折に、その舞台美術の依頼を受けました。本作は、その構想画として描かれた一枚で、秘密や苦悩に縛られた登場人物たちの心の内が、見事に表現されています。

エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー
《グラスのある静物》1912年

キルヒナー(1880-1938)はドイツ表現主義を代表するグループとなる「ブリュッケ」を1905年に結成し、社会の因習から解放された芸術を目指しました。この作品では、テーブルにグラスやワインクーラーとともに自作のプリミティヴな木彫果物鉢が置かれ、背景には裸体の男女をアフリカやオセアニア風に描いた壁掛けが飾られており、そこには近代と原始、人工と自然といった対比が感じられます。単純化されたフォルムや、大きくせり上がるテーブルや正面から描かれた壁掛けなど複数の視点の導入には、セザンヌや同時代のキュビスムの影響が認められます。

ヴィルヘルム・レームブルック
《立ち上がる青年》1913年

レームブルック(1881-1919)は1904年デュッセルドルフの展覧会でロダンの感化を受けました。1910年に移ったパリではマイヨールの影響も受ける一方、モディリアーニやアーチペンコといった前衛的・抽象的傾向の美術家たちと交流し、細長く引き伸ばした人体造形に強い精神性を結びつけて、内面の表出を重視する表現主義の代表的な彫刻家となりました。この作品では踏み出した左脚が大きな空間をつくり、左腕で自身を抱き右手で上方を指差す暗示的なポーズや、引き締まった筋肉の抑揚、関節のアクセントなどが、困難に立ち向かう強靭な意志を感じさせます。

©ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2023 E5235

マックス・エルンスト
《ポーランドの騎士》1954年

エルンスト(1891-1976)は、様々な技法を駆使して画面に偶然のかたちをつくりだし、そこに生き生きとしたキャラクターを見出します。本作では、絵具が乾く前に板を当ててはがすことで生じた岩肌のように複雑な背景に、二羽の鳥を抱いた白馬と、その肩にとまるもう一羽の鳥が浮かび上がっています。荒野を歩む騎手を描いたレンブラントの同題の絵画(1655)を下敷きにしつつも、エルンストは二羽の鳥に自分と妻の姿を、また肩にとまる鳥には自らの分身と見なしていた架空の怪鳥「ロプロプ」の姿を託すことで、この光景をまったく独自の世界に作り替えています。

モーリス・ルイス
《デルタ・ミュー》1960-1961年

地塗りをしていないキャンバスの左右から、さまざまな色のアクリル絵具が滝のように帯をなして流れており、画面の中央にはむき出しのキャンバスが大きく拡がっています。アメリカの画家ルイス(1912-1962)は、1954年、巨大なキャンバスに薄めた絵具を幾層にも染み込ませることで、従来の絵画が持っていた絵具の厚みや筆あとのような表情を消し、色そのものを純粋に体験することができると考えました。それ以降、画家は1962年に亡くなるまでキャンバスのサイズや色の配列、絵具を流す方向を変えながら実験を繰り返し、数百点もの作品を生み出しました。

近代の日本の美術

高橋由一
不忍池(しのばずのいけ)1880年頃

今も昔も庶民の行楽の地として親しまれている上野・不忍池の南岸から、植栽の柳の枝越しに、西日に照らされた弁天堂を臨む情景が描かれています。イタリア人画家フォンタネージに学んだ遠近法に基づく空間表現と、歌川広重の名所図に学んだ近景の事物越しに見る遠景の構図とが結びつくことで、胸中にしかない理想的な名所の風景に、現実感が与えられています。高橋由一(1828-1894)は、1872年に日本各地の名所風景を取材しており、本作はそのときの写生帖をもとに後年描かれた風景画の一枚です。

黒田清輝
《暖き日》1897年

黒田清輝(1866-1924)は、明治中期にフランスに渡り、アカデミックな写実に印象派の明るい色彩を加味した「外光派」の様式を日本に持ち帰りました。西洋の伝統的な描法によっていた洋画(旧派)と黒田らの画風(新派)との間で対立が起こりましたが、黒田は1896(明治29)年に新設された東京美術学校西洋画科の教官となるなど、明治後期洋画の主流を形成していきました。この作品は、寒い季節の中で穏やかな陽光に包まれた田舎の風景を題材とし、さりげない描写ながら、緑や青を主とした画面のほぼ中央に干された洗濯物の赤が効果的に映えています。

中村(つね)
《少女裸像》1914年

17歳の1904年に結核を患った中村彝(1887-1924)は、1906年白馬会洋画研究所に入り、以後病と闘いながらレンブラントやルノワール、セザンヌなどを研究し、自分なりの個性的な表現を追求しました。この作品のモデルは、新宿中村屋の創業者である相馬愛蔵・黒光夫妻の長女、俊子です。1911年末から中村屋裏のアトリエに住んでいた彝は、1913年頃から女子聖学院の生徒だった俊子を集中的に描いています。若く健康的な身体の描法にはルノワールの影響が見られますが、唇を結び聡明な眼差しを画家に向ける表情や、生気あふれる頬の赤色などは、彝独自の表現となっています。

安井曾太郎
承徳喇嘛廟(しょうとくらまびょう)1938年

歴代皇帝が避暑地としたことで知られる中国北東部・河北省の街、承徳。その抜けるような青空と陽に照らされて鮮やかに光る丘の上に、チベット仏教寺院が大掴みな筆致で伸びやかに描かれています。1937年に新京(現・長春)の美術展に審査員として招かれた安井曾太郎(1888-1955)は、その帰途に承徳に立ち寄り、同地の風景を写生しました。大胆にデフォルメしたかたちと鮮やかな色彩が画面に生き生きとした感覚を与える、安井の円熟期の一枚です。

菱田春草
《紅葉山水》1908年

菱田春草(1874-1911)は1899(明治32)年頃から横山大観らとともに、線を用いず色面のぼかしを多用する表現を試みました。「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれたこの描法は、光の拡散や空気の湿潤といったものを表現するためのものでしたが、物の立体感や質感を表すには不向きでした。その弱点を補うために春草は次第に点描風の筆触を用いるようになり、この作品はその試みの代表的な作例といえます。滝壺の波立つ水面の様子は「朦朧体」のぼかしによって描かれ、一方滝が流れる岩壁は細やかな筆触と墨の濃淡を重ねて、岩肌の質感を巧みに表現しようとしています。

現代の日本の美術

©舟越 桂

舟越桂
《肩で眠る月》1996年

通常の顔に加え、後頭部にも小さな顔を持つ胸像の両肩に、家と山があります。舟越桂(1951-)は1979年から一貫して、仏像の玉眼技法を応用した大理石の目を入れた楠の彩色像を制作しています。はじめは実在のモデルがいる現代人の姿で、どこか遠くを見据えているような、静謐な半身像を主としてきましたが、1995年頃からその像は角や動物のような耳をもつなど、人に似た異形の姿をとるものに変化しました。身体そのものが山のような大きさを表現した本作は、その変化の初期にあたる作品で、1997年平櫛田中賞の受賞作です。

奈良美智
《Girl From the North Country》2014年

真一文字に結ばれた口元。切りそろえられた前髪。前を見据えた瞳。奈良美智(1959-)の描く子ども達は、安心感と不安感、親近感と孤独感など、様々な感情をたたえているように見えます。彼の作品が、美術の専門知識の有無に関わらず広く世界で愛されてきた所以です。なお、本作のタイトルは歌手ボブ・ディランが1963年に発表した楽曲タイトルの引用と考えられます。奈良の表現のルーツの一つに音楽があるのは間違いありません。また、「北国の少女」を描いた本作からは、青森県出身の奈良の東北に対する思いを感じ取ることもできます。

志賀理江子
《開墾の肖像》「螺旋海岸」シリーズより
2009年

中高年の男女の肖像写真ですが、男性の胸を貫く巨木が最初に目に飛び込んできます。しかも木の先端は地面に刺さり、男性も木も大地に根付いているかのようです。愛知県出身の志賀理江子(1980-)は、2008年に宮城県の沿岸地域に移住し、地域の人々と深く関わりながら、2012年に「螺旋海岸」シリーズを完成させました。人々が松を人力で抜いて開墾したという地域の歴史に着想を得た本作は、「螺旋海岸」シリーズを代表する1点です。志賀も実際に自分で松の根を掘り、その根で男性を挟みこんで撮影したそうです。こうした作家の経験と地域の歴史や伝承が合わさり、幻想的な形で表現されています。

©CHIKAKO YAMASHIRO

山城知佳子
《創造の発端―アブダクション/子供―》2015年(愛知芸術文化センター・愛知県美術館オリジナル映像作品)

舞踏家の故・大野一雄の伝説的な舞台を、録画したビデオを通じて研究し、その動きをコピーしようとするダンサーの川口隆夫。山城知佳子(1976-)が撮影したこの映像作品は、川口が他者の動きをそのまま写し取ろうとする行為に密着取材した、一見すると客観的な記録です。しかし、誰のものなのか分からなくなってゆくその身体は、次第に得体の知れない感覚を呼び起こします。そこには、沖縄に生まれ、実体験のない沖縄戦の記憶をどう継承するのかというテーマに取り組んできた、山城自身の関心を重ねることもできるでしょう。

木村定三コレクションから